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博大精深的汉语却无那般的精准

引用:
原帖由 kyosuke2004 于 2007-5-22 14:34 发表


你错了,我承认过我母语不到家,我不承认的是中文完美论和完全超越日文论。
比方情感、意境的表达上有些方面就不如日文。
自認中文不到家,何以評斷中文與日文在表述情感內涵上的優雅與高下呢?
這是最根本的問題,也是你自己一開始就提出來給大家疑問的地方。

從一個不健全的中文能力去看待中文,將其與日文「相對化」究竟能證明什麼?
很多人也許不懂日文,但中文造詣與閱讀都可以領會中文意境的深邃與絕妙。
我們不需要去翻譯你順手複製AIR劇本中的段落來反駁你的「中文無力說」。

[ 本帖最后由 村上春樹 于 2007-5-22 15:59 编辑 ]


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我很討厭討論文學還拿ACG中的作品來YY,不是說ACG就是渣,但討論文學請拿文學大家的作品。
日文原文有了,中文翻譯也一併附上。大家來看看究竟中文是否能妥善表現日文的意境。

翻譯的過程本身涵蓋了譯者對於文本的理解與組織思考,意境與味道難以百分百貼近。我貼上村上
春樹"挪威的森林"第三章與台灣版譯者賴明珠的段落給大家參考。

 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風展を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は戀をしていて、その戀はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける餘裕なんてどこにもなかったのだ。
 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く聲、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顏を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背泉だけなのだ。

記憶這玩意兒真是不可思議。當我身曆其境時,我是一點兒也不去留意那風景。當時我並不覺得它會讓人留下深刻的印象,也絕沒料到在十八年後,我可能將那一草一木記得這麼清楚。老實說,那時候的我根本不在意什麼風景。我只關心我自己,關心走在我身旁的這個美人,關心我和她之間的關係,然後再回頭來關心自己。不管見到什麼、感受到什麼、想到什麼,結果總會像飛鏢一樣,又飛到自己這一邊來,當時正是這樣一個時代。再說,我那時又在談戀愛,那場戀愛談得也著實辛苦。我根本就沒有氣力再去留意周遭的風景。

  然而,現在率先浮現在我的腦海裏的,卻是那一片草原風光。草香、挾著些微寒意的風、山的線、狗吠聲,率先浮現的正是這些,清清楚楚地。也因為實在太清楚了,讓人覺得彷佛只要一伸手,便能用手指將它們一一描繪出來。但草原上不見人影。一個人也沒有。沒有直子,也沒有我。我不知道我們究竟上哪兒去了。為什麼會突然發生這種事呢?曾經那麼在意的,還看她、我、我的世界,究竟都上哪兒去了?對了,我現在甚至無法立即記憶起直子的臉來,我能想到的,就是一幕不見人影的背景而已。



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更早以前,在我還算年輕,記憶仍然鮮明的時候,我曾有幾回試著想寫直子。可是當時我卻一行也寫不下去。我當然明白,只要能寫出冒頭的一行文字,便能順暢地將她寫完,但不管怎麼努力,第一行就是寫不出來。一切是如此鮮明,教我不知從何為起。這就好比說,一張畫得太詳細的地圖有時反而派不上用場一樣。不過,現在我總算懂了。原來——我想— —只有這些不完整的記憶、不完整的思念,才能裝進小說這個不完整的容器裏。而且,有關直子的記憶在我腦中愈是模糊,我便愈能瞭解她。我現在也想通了她叫我不要忘記她的道理了。直子當然也知道。她知道總有一天,我腦中的記憶會漸漸褪色。也因此,她非得一再叮嚀不可。

  “我希望你永遠記得我,永遠記得我這個人。”

  想到這兒,我就覺得非常難過。因為直子從來不曾愛過我。

もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う―文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。
 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。


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kyosuke2004 轉了一大圈,為何不拿日本文學大家的小說原文與華文出版譯者的內文作參考?

我前面有貼村上春樹小說的原文與華文翻譯,人家好歹也作了十幾年的村上文學翻譯,要比中文
能力與日文水平絕對有資格從作品來評判"中文是否可以實現日文的意境"。

再說你拿的還是文學界根本談不上認可的ACG文學,村上春樹在日本作家中使用語言的精煉程度與
表述現代人情感的失落與孤絕獨樹一格堪稱最高。如果中文都可以在某程度(翻譯本身就會磨損原意)
上對日本現代文學最高一人之一的作品實現高度的契合,這將更突顯得你自顧自拿著不成氣候的中文
解讀日文段落,大唱"日文表述情感勝於中文"的荒謬與突兀。

[ 本帖最后由 村上春樹 于 2007-5-22 17:05 编辑 ]

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如果有人拿中文的高度修辭原文來相比日文,當日文缺乏某些"對映"可加以重現時,這是否
也代表日文在某些地方上有所不足呢?問題是這種不足有什麼實質意義?真的代表了在一
廣度上的情感集合上都會顯示某語言的表現力不足?

語言沒有完美無瑕的,文學的養成與作家深受文化涵養的影響有關。「翻譯」的本身就是一
種「意象磨損」(理解不一)並加以「反純化」(參入譯者文筆的成分)的過程。你理解一個科
學定理,每個人就語言而非數學算式與符號上的的表述方式也有不同。

如果譯文在意境上能達到高度契合,那我想這可以認為兩者已經實現高度的表述契合。如
果真的還要比日文與中文在表述能力上的差異,拿性質類似的中文日文兩篇原文同列,讓
讀者自己心神領會,看那語言究竟實現的多少的穿透力與共感才是評判標準。

堅決反對以「譯文」形式來當作絕對的語言表述高下評判標準。

[ 本帖最后由 村上春樹 于 2007-5-22 17:35 编辑 ]

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推一下sleepboy的回覆,果然中日文雙通(文筆很不錯啊)的人比一般人更能說出不同的道理來導正
Kyosuke那略嫌狹隘的思考與翻譯思路。

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所謂「吾中文能力有限...但我還是認為日文在XXXXX優於中文」這其中陳述前者的意義在
哪,我想這邊已經沒人想去深究了。深究至底越看越像是中文掌握的深度不足,以及對於
語言的獨特情感滋生差異化的認知。

當日文有XXX詞讓你覺得中文對譯會有缺失,同樣地中文也可以構成諸多形式讓日文難以
對譯。但當我們談諸如"借酒一杯"所談的語言優越性,從來沒看過日文優於中文的說法。
若是有,語言學界勢必有諸多紛戰。然而熟稔中國文學的就知道,這種討論沒有必要,也
不該被「產生」。

[ 本帖最后由 村上春樹 于 2007-5-22 18:46 编辑 ]

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